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歴史

ミリオネアで歴史の問題が出た。

「武田信玄の出身地は??」
答えは甲斐(現山梨)。俺はすぐにわかったが、大学の友人Yは、
「そんなのわかんねーよ」
と言った。もしかしてこいつ歴史苦手か?と思い質問してみた。
「自分の地元が何藩だったかわかる?」
すると浜松出身のYは、
「わからん・・・浜名藩?」
テキトウに答えやがって。後で調べてみたら浜松藩だった。そのまんまじゃねーか!!

ここで俺の地元山形県米沢市の歴史を紹介しよう。

米沢は戦国時代には伊達氏の本拠地であったが、豊臣秀吉によって伊達政宗が陸奥岩出山に転封された後、会津に入った蒲生氏、ついで上杉氏の支配下に入った。上杉景勝は家老直江兼続に6万石を与えて米沢に入れ、伊達氏および山形の最上氏に対する抑えとした。

しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)に上杉景勝は120万石を30万石に減封され、居城を会津から米沢に移させられた。兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。米沢藩領は、はじめ上杉氏の旧会津領120万石のうち出羽国置賜郡18万石と陸奥国伊達郡および信夫郡(福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。

1664年(寛文4年)に3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、本来なら取り潰しとなるところ、綱勝の舅である会津藩主保科正之(徳川家光の実弟)の尽力によって綱勝の妹と高家の吉良義央の間に生まれた子綱憲が末期養子に認められ、半減の置賜郡内15万石で存続が認められた。

相次ぐ減封にも関わらず、家臣の数はほぼ120万石の頃のままだった。このため、当然のごとく財政難に苦しめられ、民衆も困窮。これに心を痛めた8代目の重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであったが、9代藩主治憲(鷹山)の藩政改革で財政の再建を果たした。また、置賜郡内の旧領のうち3万石、越後国内に1万石の天領を幕府から預かっている。

ここで注目すべきは、9代藩主上杉鷹山だ。

彼は、日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれる。 母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であったことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となる。1768年(明和4年)に米沢藩を継ぐ。

民政家で、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育るなどの民政事業を行った。天明の大飢饉の際には、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。

また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。ちなみに米沢興譲館高校は俺の母校で、現在俺のいとこと彼女の妹も通っている。300年の歴史を持つ学校です。

彼が行ったこれらの政策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。まさに庶民を第一に考え、誠心誠意藩のためにつくした偉大な殿様である。アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げている程だ。もちろん、地元で鷹山を知らない人はいない。子供でも知ってる。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」は彼の歌。

このような素晴らしい人が地元の歴史上にいたことを誇りに思う。

だけど、俺が好きな戦国武将は上杉謙信の永遠のライバル武田信玄だ。裏切り者がここにひとり・・・。


米沢城の跡地でもある上杉神社(実家の近くにある)の売店に米沢牛串焼きがある。これがかなりうまい!!タレか塩コショウを選べるんだが、通は塩コショウで食うね。米沢ラーメンもうまいよ。


今日の移籍情報
ランスは、昨シーズンはレンタルでプレーしていたリバプールが保有するフランス代表MFアルー・ディアッラを完全移籍させることで合意。
PSVは、CSKAモスクワからアルゼンチン代表MFオスマール・フェレイラをレンタルで獲得。
イギリスのタブロイド紙「ミラー」は、チェルシーがミランのウクライナ代表FWアンドリー・シェフチェンコに対して8500万ユーロの巨額のオファーを提示していると報じている。
ヘルタ・ベルリンが、バイエルン・ミュンヘンのパラグアイ代表FWロケ・サンタクルスの獲得に動くと報じられている。
by hkb3000 | 2005-06-25 00:58 | 米沢

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